音楽で「捨て曲のないアルバム」なんて褒め言葉がありますが、
まさにそんな感じで、どの章もすばらしい本でした。曲順に関しても。
読みはじめる前に目次を見て、もしや…。と思っていましたが、
読破して改めて「まちづくり」って人生そのものだなぁと強く感じました。
というか、例に挙げられている演奏家やイチローのように、
各自の選んだ仕事に対して本質に向かって突き詰めていくと、
どんな仕事でも関係なく、向き合い方/問題解決の考え方/生き方の話になりますよね。
「まちづくり」という言葉にピンとこない人でもおもしろく読める本だと思います。
下記は、自分の為の覚え書き。
太字は、抜粋した部分を含む章のタイトル。
該当の章をまるまる書き起した章もありますが、基本的には一部分の抜粋です。
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最初の一歩は小さなことから(p.010)「できることをやる」のは「できることしかやらない」のとはまったく違う。後者は、自ら描いたまちのイメージへと結びつくプロセスを構想する意図がないことを示している。前者には、今はできないこともできるようになる、という展開の予感がある。そして、できることをやっていると、かならず誰かが現れる。思いがけない出会いが待ち受けているはずだ。
驚きに対して開かれてあること(p.039)「…に違いない。…に決まっている」という向き合い方では、新たな見え方は姿を現さない。複数の見え方が成立するための条件は、意外な驚きに対して意識が開かれていることだ。
分けること、そしてやめること(p.061)やりはじめたことをやり続けることは勤勉なように見えるため、再度仕分けない、やめないという怠惰さを見落としてしまうことがある。今となってはすっかり変わってしまった過去の環境に会わせたやり方を改めることは、それをはじめたひとの顔をつぶすことにはならない。環境がどのように変化するのかは、予測しきれるものではないからだ。勇気を持ってやめること、あるいは手がけないことが、むやみにはじめること、進めることよりもずっと大切な場合は少なくない。
サポーターを育てることがまちを育てる(p.134) サポーターを育てていくと、プレーヤーも変化する。何かを学ぶのに最も良い方法は、それを教えることだという。何をしたいのか理解していないひとびとに向かって説明することによって、何をしようとしているのかが、より明確になる。サポーターを育てようとして語りかけていく実践は、プレーヤー自らの活動への理解を深める。また、支援を受けると、支援者に対しての説明責任が発生する。プレイヤーは、独善的な視点に陥っていないか、方法が効果的かどうかなどについて、サポーターからのチェックを受けることになる。
見守られているとは、監視されているということでもある。サポーターを巻き込んだ以上、プレイヤーは逃げ出すことはできない。見守ってくれ、応援してくれるひとに対して恥ずかしい真似はできないという気概が生まれてくる。見巧者が演技者を鍛えるように、サポーターはプレイヤーを育て、鍛えていくのである。
江戸時代の地域組織、町火消しは、多くのひとびとの注目のもとで活躍し、ひとびとの感謝を受ける機会を持つことによって、金銭による報酬が少なく、肉体的な危険は大きいにもかかわらず、多くの有能な若者を集めていた。サポーターが増え、[見守る/見守られる]という関係が成立すると、プレイヤーとしてまちづくりに参加したいと思うひとも増えてくる。
サポーターを育てることは、回り回ってプレイヤーを育て、まちを育てることになる。
戻れないと思う瞬間(p.142) まちぢくりに本気で取り組み、実際にまちを変えてきたひとびとについて調べてみると、ほぼ例外なく、まちを変えようと決心した瞬間、そして、行動を起こし、もう戻れないと覚悟した瞬間があったことがわかる。日付と場面を指し示すことができるような、はっきりとした瞬間である。まったく別のまちで別の活動をしてきたひとびとの間にこの共通点があることは、偶然ではない。
まちづくりは、前提条件の総体を知ることができず、行動を起こした場合の反応が読み切れないような不確実性の大きい活動である。ふさわしい条件が揃うのを待ち、完全に先の見通しが立ってから動きはじめることは、実際には不可能だ。また、まちのさまざまな状態はひとによって異なる評価を受けながら、まちの状態を比較することができたとしても、どの状態が良いのかを決めることが原理的にできない。あらゆる状態を想定して検討した結果から選択するのではなく、"見る前に跳ぶ"(やると決める)ことが必要な類の活動なのである。
だからまちづくりをつづけていくためには、覚悟を決めなければならない局面が洗われる。「やれたらいいな」と思っていることと「やる」という意思を固めることとの間には、大きな断絶がある。覚悟を決めたひとだけが、まちづくりを継続させ、実際にまちを変えていくのだ。
覚悟が状況を変える(p.143)
覚悟をすることで何が変わるのだろうか?
まず、本人の変化としては、腹が据わり、力が発揮できるようになるということがある。背水の陣という言葉が示すとおり、もう引き下がることができないとなると、能力を発揮できるようになる。逆に、いつでも逃げ出せると思っていると、できることもできなくなる。このことは、目的への忠誠心の強さと忍耐力がすべてを決めるとする精神論によって説明できるようなことではない。自分の有限な資源をどう配分するかという問題である。
どんなに素晴らしい才能の持ち主であっても、ひとりのひとが持つ資源は限られている。それを幾つもの対象に分散して投入すると、できることもできなくなる。
特に、何に意識を向けて情報を収集、処理するかを制約する注意資源
(※注意資源(attentional resource):心理学でいう注意を向ける能力のこと)は、極めて限られている。前後左右を同時に見て、安全確認をすることができるひとはいない。背水の陣を敷くことは、背後には注意資源を分配しないで済むことを意味する。眼の前の事態に集中できれば、戦いに勝つ確率は高くなるだろう。解決すると覚悟した問題に注意資源を集中すると、その問題についての情報収集・処理能力もあがる。漫然と構えていては、感知できない情報を捕まえることができるようになる。手に入れることのできる情報が整理され、質が上がれば、判断力も上がる。持っている資源を覚悟したことに使うと決めれば、他の可能性を考えるための検討時間や手間を大幅に省くことができるため、有効利用できる資源の割合が増え、集中は一層進む。
周囲のひとびとに対しては、覚悟をすると説得力が変わる。本気であることが伝わると話し方が変わる。加えて、話の内容も変わる。言い訳ではなく方法を考えて伝えるようになるからだ。周囲の協力を引き出す力が上がるのである。
準備ができていること(p.144)覚悟するのは、ひとりでできる。ただし、「覚悟したぞ」ということが、言葉のうえだけにとどまらないようにするには、準備ができていなければならない。準備のない冒険が自殺行為であるように、準備のない覚悟は成果をもたらすことのない思考停止である。
準備ができていることは、少なくとも以下の3つについて、考えておくことだ。第1に目指しているまちのイメージ。第2にまちづくりを取り巻く状況と、まちづくりが引き起こす影響。第3にやることの範囲についての条件。つまり、何がしたいのか、何ができるのか、どんな影響があるのか、やるためにどれだけの犠牲を払うのか、どこまでやるのか、どうなったらやめるのかなどについて考え抜いてあることである。
もちろん、すべてを明らかにしておくことはできない。だから事後的に「こんなこともわかっていないではじめたのですか!」と言われてしまうリスクを避けることはできない。わからないことがあるなりに考えを持っておくことが、覚悟することの準備である。
覚悟するという自分に対する態度表明は、少なくとも自分と世界との関わりを変える。その意味で、既にそれだけで世界は変わる。最も大きな報酬は、結果に自分で得心がいくようになることかもしれない。
「小さな失敗」を把握する(p.162)まちづくりに限らず、大事なことは、取り返しの付かない致命的な失敗、「大きな失敗」をしないことであり、失敗した後に取り返す手段を用意することである。「大きな失敗」を犯さないためには、短いスパンで「小さな失敗」の存在を把握しておく必要がある。これもまた逆説的だが、「大きな失敗」がおきるのは、「小さな失敗」の存在が積み重なったときではなくて、「小さな失敗」の不在が積み重なったときなのである。「小さな失敗」すらなかったことにしようとすると、つじつまを合わせるために、予測・効果測定のモデルは現実から遊離する。現実に即した予測と効果測定を行うと、失敗が小さなうちに見つけられるから軌道修正ができるようになる。
使うことはつくること(p.195)アスリートの例の場合、彼らの道具はあらかじめ用意されていて、選手がつくりだすわけではない。だが、それらの道具を選手は各人なりのやり方で使いこなすことによって、そのひとと道具にしか表現できない運動を出現させ、自分と観客の喜びをつくりだしている。つまり、使うことはつくることでもある。まちについても同様で、上質な「まち使い」はすでに良質な「まちづくり」なのである。
使いこなすことができると、道具は便利になり、道具を使って行う仕事の効率も上がる。だがそれにはとどまらない価値もある。うまく使えるという自在感は、安心感と快適さをうみ、道具に対しての愛着が生まれてくる。
(中略)
また、使いこなすことは、それ自体が愉しみになる。うまくできることはやっていて愉しいし、習熟することによってできることが広まり、可能性を試そうという挑戦する喜びもある。すべての道具と同じように、まちづくりにおいても、習熟するにつれて、道具への要求はより高度に、かつ明確になり、改良の余地が見えてくる。
使うことからまちづくりへ(p.196)まちを使いこなすことが個人としての活動であっても、それはそれでよい。だが「まちづくり」として広く了解されるようになるためには、ひとつの条件がある。それは「使いこなし方」が、まちへの新しい参入者(移住者や次世代の子供たち)に対して、開かれてあることだ。
無人島に漂着したとして、最低限の生存環境を整えた後にまずすることは、地図をつくることだろう。ある場所をどんなふうに使いたいのか、その場所で何ができるのかに基づいて、各ポイントの特徴を読み取り、幾つかのポイントを結んで、これからどうしていくのかを想像する。まちを使いこなすためには、すでによく知っているはずのまちであっても、自分はそのまちで何がしたいのか、何ができるのかという視点から、まちをもう一度見直すことからはじめるのがよい。
外部と内部の変化(p.202) 童謡「まちぼうけ」として知られている農夫の話がある。畑仕事をしていた農夫は、飛び出してきたウサギが切り株に頭をぶつけて死ぬのを目撃する。もう一度獲物を手に入れようとして、農夫は切り株を見張ることに専念する。結果として畑は荒れ放題になってしまったというものだ。童謡では、めったにない幸運を期待して本業をおろそかにする愚かさが強調されている。だが『韓非子』では、過去にとらわれ決められた教えに固執するのではなく、現在に合った問題の解決方法を探るべきであることを伝えるたとえ話として、この話は採り上げられている。うまくいっていたことを続けていても、うまくいくとは限らないのだ。
また、ひとは生まれ、成長し、移動し、死んでいくものだから、現在のまちを構成し、未来のまちを構想するひとびとは、絶えず入れ替わる。生活環境としてのまちは、外部環境に対応するだけではなく、内部からも変化することを求められることになる。
変わりつつ残る(p.204)変化が避けられないことがわかったとしても、現実に変化していくのは簡単なことではない。特に、うまくいっているときに手を打つのは難しい。うまくいったときを忘れられず、変化に対応できないひとびとが現れる。変化を拒む既得権益層が生まれている場合もある。変化しないことのリスクは見えにくい。
問題が発生した場合、変化を起こさなかったときよりも、変化を起こしたときに、より大きな責任が問われがちであるということもある。判断、行動する者の責任についてのこの非対称性は、変化を送らせる要因となる。成功が次の大失敗を用意してしまうことがあるのは、このためだ。
けれども、必ず変化しなければならない局面は訪れる。変化しなければならない、ということが誰の目にも明らかになったときには、もう打つ手が極めて限られたものになってしまっていることは少なくない。大切なことは、外部の系の変化によって変化を強制される前に、自ら仕掛け、環境を知覚して、環境に作用する方法を変えることだ、先手をとれば、できることは増えるし、自ら決定していく愉しさもある。
環境、生活環境、個々の人間は、相互作用する系だから、生活環境を変えることは、自分を変えることでもある。変化の可能性を持つことは、生きていることの素晴らしさである。まちについても同じことがいえる。博物館に飾られたまちは、まちとしての魅力を見せることがない。
まちは変化することで生き続けていく。その現場に立ち会い、変化を方向づけるように生きることがまちづくりであり、成果としてまちが残る。そこには確かな魅力がある。
おわりに(p.208)「まちづくり」は、問題解決指向の実践だから、学際的である。しかも人間の広範な諸活動に関わるから、知っておいたほうがよいことは、知ろうとする人間の能力をはるかに超える。建築と同じだ。こうした領域では、生半可な知識よりも直感と勇気のほうが重要なことがある。けれども、直感を鍛えるのは学習と思考である、というのもまた事実である。言葉を使って思考することの力に期待して、本書を書いた。既に言われていることであっても、忘れられていること、伝わっていないことをきちんと表現して伝えることを意図している。